箱根駅伝と創価大学

今日は箱根駅伝をテレビ観戦。私の母校でもある創価大学も出場。

 

私が在籍時はなかなか箱根には手が届かなかったけどここ数年の躍進はホントに凄いと思います。

 

創価大学陸上部にとっては有力な高校生をスカウトするのはとても大変だったと思う。ふつうに考えたら青山学院や早稲田、中央など全国的にブランド力が高い箱根駅伝常連校はたくさんあるわけで、箱根駅伝を走りたいならわざわざ創価大学を選択するかと言われたら私の学生時代は大半の高校生はNOだったでしょ。

 

でも今や青山学院や早稲田や中央などと肩を並べて戦っている後輩たちの覚悟や努力には感動するし心の底から応援しています。

 

一方で選手をスカウトする際には殊更「創価学会に入信する必要はない」「創価学会による宗教教育はない」と心配される親御さんには説明していると監督が取材で話していました。

 

創価大学創価学会色を消した生徒を集めの結果、陸上部は強豪チームに成長してきたわけです。

 

前にも話したけど私も体育会に所属してました。私のときは大事な試合があれば池田先生にお応えするために、広宣流布のために、という信仰心が根底にはあって試合に臨んでいたから、それでやってきた身としては少し寂しい気もします。

 

かくいう私もあれから20年近くが経ち引っ越しや結婚を経ていつの間にか未活動になりました。

 

時の流れを感じる日々です。

 

 

 

 

 

中学の時の話

おー君の話。

 

私は同級生のおー君と中学2年生のときに一線を越えている。これはたぶんヨシユキも知らない。

 

一線を越えたと言っても私の全てを捧げたわけではなくてキス以上のことはしたということで(でもキスはしなかった気がする)、これ以上書くと生々しいので止めとく。

 

おー君とは小学校は同じだったけど中学は別で、それなのになぜか2人で会うようになった。携帯電話もなかった時代の話なので、どうやって別々の中学に通うおー君と会う約束してたのか、、、忘れた(汗)

 

会ってたのは夜中で、家を抜け出しておー君の家に行った。おー君が私の家まで自転車で迎えにきて、私は窓からそれを確認して家を抜け出す。不良だったわけではなくて、でも好奇心が旺盛だった。

 

たぶん5回くらいは夜中におー君と会ってて、最初の頃は家の近くの公園で話してたけど、何回目からかおー君の部屋に忍び込んで、朝の4時とかにまた自分の部屋に戻って…みたいなことしてました。

 

私の記憶が正しければ、、、1回だけ身体的な接触があった。はっきり覚えてないけど下ネタを話してるうちに「うちらもする?」みたいな感じで始まったのかな?覚えてないや。

 

でも最後まではしてません。それは覚えてる。

 

ちなみにこれだけです。中学の時の男子との浮ついた出来事は。

 

誰から告白したとか、されたとかも全くなく。おー君ともすぐに会わなくなり。。。なんで会わなくなったのかな?それも忘れた。

 

当時の自分にはかなり大きなことだったと思うけど、こうやって忘れて、いずれ消えてなくなるのかぁ。虚しいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

栄枯盛衰

先月、第3代会長の池田先生の逝去が報道されましたけど実は私は創価学会員です。そしてクラスメイトだったおー君も創価学会員でした。 

 

当時、小学生の時のクラスメイト、他のクラスの同級生に学会員は多かった。

 

創価学会員には創価学会員特有の仲間意識があって、お互いに同志として強く結ばれている。

 

私の場合、両親・兄弟を含め、特に強い信心があって自宅は一見すると普通の家だったけど実際は「拠点」と言って創価学会の座談会や会合にも使用されていた。

 

100人規模程度なら入れる大きな部屋と大きな仏壇があって、いま以上に組織が強固で精力的に活動していたので土日、平日、関わらずたくさんの人が自宅を出入りしていて、子どもの頃から、知らない人が家にいても何とも思わなかった。

 

クラスメイトのおー君とは地域で細分化されている組織が違ったので普段の創価学会の活動で会うことはなかったけど、それでも他の仲良いクラスメイトとも違った特別な仲間意識はおー君には対して間違いなくあった。

 

友人とも違う、恋愛とも違う。学会的に言う「同志」。これは学会員にしか分からない感覚。

 

池田先生の創価学会に対する影響力は晩年、ご存命の頃からかなり少なくなってきていたと思う。

 

私は創価大学へ進学したけど、まだ私の学生時代は「池田先生の創られた大学で学びたい」という理由で早慶を蹴って創価大学を選んだ生徒もいたし、創価大学卒=池田先生の直系の弟子という風潮も学会内では強かった。実際に池田先生が創価大学に来られることも年に数回はあった。

 

大学時、体育会系の部活に所属していたけど大事な試合前はみんなで唱題して勝てば信濃町の学会本部まで池田先生にご報告していた。

 

体育会系は練習の関係で日頃は学生部や地域の学会の活動はできない。だから試合で勝つことが広宣流布であり池田先生への恩返しだった。いまそんなこと考える生徒どのくらいいるのだろう?。というか運動部は創価学会員ではない比率が高いらしい。

 

これも時代です。

 

国政選挙で全国約900万票を獲得してからまだ四半世紀も経ずにして、あの時、今の創価学会公明党、そして自分自身も含めてここまで変わるとはまったく思いませんでした。

 

おー君は先生のご逝去をどう受け止めているんだろうね。同窓会では信心の話、しなかったけど、、、同じく学会員の愛ちゃんとはしてたっぽい。まだ頑張ってるのかな?

 

栄枯盛衰とはよく言うけど、なんか自分がどんなに頑張って創り上げたものでも、いつか崩れ過去のものとなる。私自身もいずれね。寂しいような虚しいような・・・

 

それでも私は生きたいんだ。何かを掴みたいし何かを残したい。それらが全ていずれ無になると分かっていてもです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それが普通だった

いきなりですが小学生の頃の私はモテました。別段に可愛かったのかというとそうでもない。スポーツが得意だったので男子に混じって野球したりバスケしたりしてはいたから男子とは仲良くはしていたけど、女子っぽさ、今風に言うなら女子力が高かったわけじゃない。

 

それでもクラスの3分の1の男子から告白されたり何なりしていたから何かしら魅力があったんだろう。けど、その魅力がいったいなんなのかを自分では理解していなかったし、中学・高校と進むうち、私のモテ度は富士急ハイランドの富士山の如く急降下。自分でも分からないけど大したことない魅力だったたんだろう。

 

と言ってもそんなのはよくある話。年齢を重ねて特に多感な思春期ともなれば去年まであんなに仲良かった友だちとも全く話さないなんてこともあるように、新しい出会いもたくさんあって、社会もどんどん広がり価値感も多様化する。

 

小学生の時のようにクラスメイト数十人と家族だけとしかほぼ関わらない狭い世界での関わりの中で、モテたといってもそれは薄っぺらいもの。

 

そんなのはわかってます。

 

先日、小学生の同窓会のようなものがありました。だいたい15人程度集まって、みんなで飲んで歌って楽しい時間だった。

 

私にとって小学生時代の仲間はとても居心地がいい気がする。それはやっぱりその「モテた時の自分」に戻れる気がするから。そんなの幻想なんだけど、でも背伸びしなくても頑張らなくても小学生時代の仲間は私に居場所を、しかも特等席を与えてくれるのを感じる。

 

一方で男子の中で1番モテた、おー君もここではやっぱり輪の中心にいる。女子陣たちは今でも彼と話すときとても楽しそう、実際に彼は周囲を温かく明るくする力が昔からあったと思う。私とは違いおそらくずっとモテて生きてきたのかな。そういう人はなぜ自分がモテるかも分かってるんだろう。

 

おー君は小学生の頃、私を好きだと言ってくれていた。他の誰よりも強くその私への想いを秘めてくれているように感じた。

 

クラスイチのモテ男のおー君が私を好きだと言ってくれている。でも私は当時、おー君ではなくてヨシユキが好きだった。そのヨシユキも私を好きだと言ってくれた。

 

おー君もヨシユキも、みんなが私のことがすき。それが普通。

 

小学生のときだってきっと良いことばかりではなかったと思うけど、たまにあの時の自分に戻ってみたいと思う。

 

また人生をあの頃からやり直すとしたら、私はどんな人生を歩むんだろう。